手を動かし、心を揺らす。
今朝、起きてすぐにプチトマトのマリネを作り、
それから、ほうれん草と春菊でごまあえを作った。
午後に買い物へ行き、大粒の梅2kgを買い、
梅酢と梅ジュースを作った。
梅の実を流水で洗ったあと、
つまようじを使って、実のへたをひとつずつ取る。
作業をしながら、昔、住んでいた家にあった
大きな梅の木を思い出した。
毎年、シーズンになるとかごを持って梅の実を摘んだ。
全部、取り終えると数をかぞえた。
それほど大きくない木だったけれど、門の左右に2本あり、
両方合わせると、たしか毎年、数百個は越えていたと思う。
その梅を使って、母は梅酒を作った。
わたしはまだ子どもだったから、
ただの一度もその味を試したことがない。
梅仕事が終わったあと、
ズッキーニとパプリカで、マリネを作った。
プチトマトも入れようと思って、
一緒に店で買ってきたのだけど、
梅の実や、氷砂糖や、酢や、保存瓶などがとても重く、
途中、緑道のベンチで休憩しているとき
1パック、全部食べてしまった。
黒いねこがこっちに近寄ってきたけれど、
ごめんね、きみはトマトを食べないよねえと言いながら
わたしがひとりで食べ終えた。
6年前、ニューヨークに住んでいたとき、
テロで犠牲になったひとたちの
形見や写真などが飾られたビジターセンターへ行った。
そこにあった1枚の手紙が、いまだに忘れられなくて、
ときどき、ふっと思い出すのだ。
“No I am sad"
もしかしたら、
テロで亡くなったひとの子どもが書いた手紙なのかもしれない。
その文章には、背の高い2つのビルと
それらに水をかけている消防車のイラストが添えられていた。
どうして、"No" のあとに "I am sad" が続いているのか。
それが、ずっと気になっていた。
学校で習った英文法では、
"No" のあとには、必ず否定文が続いたはずだ。
なのに、“No I am sad" とは、いったいどういうことなのだろう。
「いいえ、わたしはかなしいのです」
梅仕事をしながら、この文章について考えていた。
梅の実のへたは、つまようじを差すとするりと抜ける。
それがとても気持ちよく、1個、また1個と、
調子良く作業を進めているとき、
突然、ふっと思いついた。
"No" と "I am sad" のあいだには、
もしかしたらピリオドが隠れているのかもしれない。
正しくいえば、"No, I am not. I am sad." になるのかもしれない。
これなら文法に適っている。
そう思いついた瞬間、
6年間の時間の重みがすっと溶けたような感じがした。
「いいえ、わたしはかなしいのです」
彼、または、彼女にそう答えさせた質問とは、
いったいなんだったのだろう。
そもそも、「かなしい」の反対語はなんなのか。
「うれしい」だろうか「しあわせ」だろうか。
でも、「あなたはうれしいのですか」
「あなたはしあわせですか」など、
テロと関わりのある子どもへ、質問をするひとがいるだろうか。
「いいえ、わたしはかなしいのです」
いったい、彼、または、彼女がこの答えを口にしたシーンは
どんなものだったのだろう。
そのとき、彼、または、彼女はどんな表情をしていたのだろう。
そんなことを考えながら、
1kgの梅をりんご酢と氷砂糖に、
もう1kgの梅をたっぷりの氷砂糖に浸けた。
そういえば、去年の秋は栗の甘露煮ばかり作っていたのだ。
ときが経ち、今度は梅仕事をする季節になった。
過去記事 2008年3月31日 「ことば」