それは、失ってから気づくべきものではなかった。
インドでの行き先がなかなか決まらず、
どうしようかなと、ずっと思っていたのだけど、
いろいろな偶然が重なって、一瞬で予定が決まった。
世のなかには、ときどき、こんなことがある。
*
このところのわたしは、
夜早く寝て、朝5時前に起きて原稿を書き、
毎日、相変わらずヨガに出かけ、
駅前の花屋でときどきチューリップを買い、
そして、ずっと同じ音楽を聴いている。
部屋を暗くし、ソファに横たわってそのうたを聴いていると
いろんな意味で、もう、どうでもよくなってくるのだ。
投げやりな気分ではない。
ホント、どうでもいい、なんでもいい、anything is possible.
*
だけど、そのことだけは
失ってから気づくべきではなかった。
数年経ってからようやく気づくなんて、
まあ、予想していたことではあったのだけど。
*
「自分で選んだ道だから」
それが、いったいなんの理由になるだろう。
「つらいのは、自分だけじゃない」
だからといって、何が救われるわけでもない。
わたしは、「癒し」というコトバが苦手だ。
だけど、いちばん癒されたいと思っていたのは
なにを隠そう、自分自身だったみたいだ。
*
ここ数日、考えていたことの書き綴り。
でも、いちばん書きたかったことは過去のブログのなかにあった。
人生のなかで
「これじゃなくちゃだめと思うものは少ないほうがいい」と
常日頃言いつつ、
さて、わたしにとって「これじゃなくちゃだめ」と思うものなんて、
そもそも身の回りにあるのだろうかと考えてみたところ、
あまりピンとくるものがなかった。
結局のところなにかの代わりは必ずあって、
もちろんはじめのうちは「代役」であって
完全に補うものではないけれど、
たぶん時が経つにつれて
「失ったもの」を思い出す瞬間というのは徐々に少なくなり、
笑っていてもふっと顔がこわばるようなこともなくなって、
その「失ったもの」は
やがて「思い出」になったり、「記憶」になったり、
またはきれいに風化して
「あれ、この感覚、たしかに昔どこかで」というような、
ある意味、デジャブ体験の根源になったりするのだと思う。
そうか、わたしはどこへ流れ着いても「わたし」なんだよな、
これじゃなくちゃだめと思えるものは、
結局のところ「わたし自身」しかないんだよなと思いながら、
昨日から何度も何度も繰り返し聴いている音楽に合わせて
なにげなくハモってみたら、
その音楽が以前よりもっともっと血の気の通ったものになった。
ああ、まさにいま、「これじゃなくちゃだめ」と思えるものは
わたしにとってこの音楽なのだ、
「これじゃなくちゃだめ」と思うものは、
なにもずっと継続して思い続けるものだけを指すのではなく、
少なくとも、いま、この瞬間にそう思えればいいのだと、
そんな単純なルールに気付いたら、
なんだか、
人生はかけがえのないもので満ちあふれているような気がしてきた、
というよりもむしろ、
かけがえのないものしかこの世には存在しないのだという感じがした。
人生は一瞬の連続なのだ、
だからこそ一瞬の出来事に、
まるで天地がひっくりかえったみたいに一喜一憂するわたしたちは、
なんて未熟で愚かでものすごく愛しい存在なのだろうと思う。
*
さて、そろそろインド。
たった数日間だけど、
再び、この空間でみんなと一緒にヨガができることを、
とてもしあわせだと思う。
いまは、手のなかにそれだけがあれば充分。
*
もう少ししたら、行ってきます。
しばらくのあいだ、さようなら。
良い日々を。