それはもしかしたら、憎しみ、あるいは恨みと呼ぶもの。
しかし、もし私が
常に燻り続ける命名困難な感情の存在に気づかなければ、
あるいは、気づいていたとしてもその存在を認めなければ、
私は、いつまでもその重い鉛のような塊を
腕の痺れに耐えてなお、抱え続けなければならなかっただろう。
昔、ほんとうに好きだったひとが
よく、ギターを弾きながら歌っていたうたを久しぶりに聴いた。
もちろんそれは別のひとで、
ギターを弾きながらではなく、カラオケに合わせて歌っていたのだけど
そういえば、彼と最後に会ってからどれくらいの月日が経つのだろうと
うたを聴きながら、指を折って数えてみた。
そういう記憶は、意外にはっきりしているもので、
私はその彼といつどこで、どういうふうに会ったのか
とても明確に思い出せる。
「これが憎しみというものですよ」
「これが恨みというものですよ」
そんなことは、誰が教えてくれるものでもなく、
「ひとは、これを愛と呼ぶのですよ」
そんなことも、手探りのなか自分で見つけていくしかない。
だけどどのような性質の感情であっても、
私がその存在に気づかなければ解決の糸口さえつかめないのだし、
その感情がどんなに微妙なものであれ、確かにあるのを認めてこそ、
消えるべきものは消え、育まれるべきものは育まれ、
すべてが収まりのいい定位置へ、すとんと落ち着いていくのだと思う。
写真は、インドのリシケシで買ったノート。
それに、ダラムサラの露天で買った革ひもと鈴をつけ、
ぐるりとノートに巻き付けて、閉じられるようにしている。
見知らぬ町でノートに想いを書き綴るのは、
日陰に隠れた感情にひとつひとつ名札をつけ、
明るい日なたへ誘い出す作業のようだ。