見えなければいらだち、見えすぎると崩れる。
先週末、洗面所でコンタクトレンズを流してしまった。
わたしは乱視がひどいので、
いつも、乱視矯正効果の高いハードレンズを使っているんだけど、
1年に1回くらいは落としたり、無くしたりする。
いったい、コンタクトを使って何年になるんだと言いたいが、
まあ、仕方ない。
3秒であきらめて、寿命だったのだと思うことにした。
いつも、洗面所でコンタクトを洗うたび、
いつか、流してしまうだろうなという予感があった。
今日は大丈夫だった、今日も無事だったと、
そんなことを考えながら、毎日レンズを洗っていた。
たぶん、いざ流してしまったときの心づもりを
そうやって、少しずつ作り上げていたのだと思う。
予期しなかったことが起こるよりも
予期したことが起こるほうが、
こころに対する衝撃は、少なくて済む。
思い返せば、わたしの人生はそんなふうに
心づもりを作ることの連続だったように思う。
流してしまうだろうなと思うなら、
排水溝に網を敷くとか、その都度栓を締めるとか
いろいろ対策はあったのに、
それをやらずに「流す」心づもりを作るとは
いったいどうかと思うけれど、
まあ、全部をひっくるめてそれがわたしなのだと思う。
不器用というか、頑固というか、
ときどき道が1本しか見えなくなる。
自分の意思以外で、その道から逸らされることを極端に嫌う。
コンタクトを無くすくらいで済むならまだしも、
時折、人の気持ちまで巻き込んでしまうから、
まったくどうにもやりきれない。
なかなかコンタクトを作りに行く時間が取れなかったので、
しばらくの間は眼鏡をかけて仕事をしていた。
コンタクトよりも強めに眼鏡を作ったせいか、
駅の階段を下りる時など距離感がつかめなくて
ひやりとすることも、時々あった。
普段、見えないものが見えるということ。
そして、見えすぎるあまりに平衡感覚が乱されるということ。
見えなければいらだち、見えすぎると崩れる。
なんて大きな不安定のなかでわたしは生きているのだろうと、
眼鏡越しに世界を見ながら、改めて思う。
だからこそ、どっちに転がってもいいように
普段から、心づもりを作るくせがついたのだろう。