ただ、ひたすら。
このところ、部屋でかける音楽はピアノ曲が多く、そのなかでも気に入った2曲を選び、延々と繰り返し聴いている。
この連休は、そんなふうに音楽を聴きながら、ずっと部屋のなかで仕事をしていた。
窓から見えるのは秋晴れの青空で、ときどきパンとか、野菜とか、牛乳とか買いに外へ出ると、ああ、世間はこんなにも気持ちのいい季節なのかと、改めて実感した。
自分と世界の間に、壁一枚はさんだように現実感がない。
「このところ、現実感がない」。
先日、あるひとにそう話した瞬間、また一歩、現実が遠のいたような気がした。
しかし、そもそも「現実感」とはなんなのか。
パンとか、野菜とか、牛乳とか、買って来たものを冷蔵庫や棚にしまったりするのは、「現実」ではないのだろうか。
後悔するということは、結局、自分の取るべきだった行動や選ぶべきだった道にようやく気がついたということと同義なのだとしたら、もしかしたら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。
進歩と進化。
ものごとが変化するときには、善かれ悪しかれ、かならず反動が起こるものだ。
だとしたら、後悔のまっただなかにいる間は、きっと、現実と過去のあいだの中途半端な隙間を右往左往している状態なのだろう。
そう考えると、いまの自分に納得がいく。
現実感がないのも、もっともだ。
ふと、そんなことを思った三連休最後の夜。
ピアノ曲がもうすぐ終わる。
どうして、いまさらそんなことをここに載せる必要があるのかなど、考えもせずに書くことにする。
ただひたすら、自分のために。