たくさんのほほえみを経由して。
ニューヨークにいたときは、よくベーグルを焼いたよ。
たいてい土曜日の昼間に焼いたんだけど、
オーブンを3回転して、1日に20個近く作ったり、
もう、一人暮らしとは思えないほど大量のベーグルを焼いたんだ。
仕上がりがいまいちだと、日曜日もキッチンにこもって焼き続けた。
そうそう、アパートの前の坂を下ったところに
コインランドリーがあってさ、
そこと家を何度も往復しながら
洗濯とベーグル作りを同時に進めたこともあったっけ。
ちょっとランドリーに長居しすぎると、
ベーグルが過発酵になっちゃうから要注意なんだけど、
つい近所のおばちゃんたちと話し始めちゃったりね。
懐かしい。
もどかしいほど懐かしくて仕方ないよ。
ベーグルはいつもプレーンばかりで、
時々、駅前の八百屋でフレッシュなブルーベリーが売られていると
あ、ベーグルに混ぜてみようかなと思うんだけど、
やっぱり、ベーグルはプレーンが基本でしょ、って
ひたすら、なにも混ぜずに焼いたんだ。
まずはこれを上手にできるようになってから
いろいろなものを混ぜてみようって、
結局、プレーンしか焼かないまま
ニューヨークを出ちゃったんだけどさ。
キッチンのガスオーブンから香ばしいにおいが漂ってきて
もういいかな、焼けたかなって扉を開けると
顔いっぱいに熱風が当たるんだ。
うわ、あちって、焦って扉を閉める直前、
ベーグルの焼き色を確認する。
やっぱりガスオーブンは、日本の電気オーブンとは馬力が違うね。
わたしみたいな素人でも、ちゃんときつね色にこんがり焼ける。
お、いいじゃん、いいじゃん、成功じゃんってひとり満足して
オーブンからベーグルを取り出し、
焼き立てほやほやのところを指でちぎってほお張った。
それはそれは、至福の味。
粉の甘みって、こういうことを言うのかなあって
一口、また一口って、気がついたら丸ごと一個消えていたり。
焼いたベーグルは、すぐに食べる分を除いて冷凍庫にしまうんだ。
そして、次の1週間分の食料になる。
トーストしてバターを塗って朝食にしたり、
サラダや簡単なおかずと一緒に持っていってランチにしたり。
ときどき、薄くスライスしてカリカリに焼き、
ベーグルラスクにすることもあったよ。
シナモンシュガーやガーリックソルトをふりかけて食べると
もう、中毒みたいに止まらなくなるんだ。
夜中、一晩中本を読みながらずっと食べ続けたこともあったっけ。
かたわらに、滅多に飲まないチェリーコークを置いて
アメリカンな気分を満喫した。
どうしよう、懐かしくて仕方ないよ。
あのキッチン、あのオーブン、
昼間、ちょっと哀しいこととかいやなことがあったりすると、
真夜中に音楽を聴きながら
朝方までベーグルを焼き続けたこともあったなあ。
あのときのベーグルは上手に焼けたんだっけ、失敗したんだっけ、
もう忘れちゃったけれど、
焼き上がりとともに迎えた朝は
ぽかんと口を開けて見とれるほど、きれいな乳白色の空だったこと、
今でもはっきり覚えてる。
さっきまでは、ただの粉と水でしかなかったものが、
あっという間に膨らんで、おいしいふかふかのベーグルになるなんて、
すごいなあ、ニンゲンってなんでもできちゃうんだなあって
改めて感動したよ。
焼き上がったベーグルが、近所で売られているものよりおいしいと、
(まあ、もちろんそれは親のひいき目みたいなものなんだけど)
わたしってすごいじゃん! 天才じゃん!なんて
自己満足に浸ったりね。
思えば、ニューヨークで過ごした一年間、
店でベーグルを買ったのはほんの数回しかない。
いつもいつも、自分で焼いた日本サイズのベーグルを食べていた。
焼きながら思っていたのは、いつかこのベーグルをひとりじゃなく
誰かと食べる未来のこと。
それは恋人かもしれないし、友だちかもしれないし、
あるいは、どこかのバザーで売り歩くのかもしれないけれど、
それでも、それを食べたひとが思わずうまいって笑っちゃうような
ベーグルを作れたらいいなあと思いながら、
全身のちからを込めて粉をこねた。
たぶん、てのひらでぎゅうぎゅうとこねながら、
わたしもニンマリ笑っていたんだろうなあ。
パンってすごいよ、その小さな姿のなかに
いっぱいのしあわせを含んでる。
たくさんのひとのほほえみを秘めている。
これがきっと、わたしがパンを好きな理由。
それは、自分で作ってようやくわかった。
ニューヨークを出てから一度もベーグルを焼いていないし、
超特大パックで買ったイーストも粉も
みんな、向こうに置いて来てしまったけれど、
また、久しぶりにベーグルを焼こう。
たとえ、いまいちな出来映えでも
「ごめんごめん、失敗しちゃったー」って笑って言えば
そこにはきっと、あたたかいほほえみがあるだろう…あるはずだ。
京都、hohoemiのベーグルをいただいた。
作り手の、てのひらの大きさがわかるようなベーグルは
むぎゅっとやさしい、弾力に満ちている。
こねたひと、焼いたひと、店先に並べたひと、買ったひと、
たくさんのほほえみを経由して、
このベーグルは、わたしの手もとにやってきたのだ。