"Are you Happy?"という問いかけから、今日の一日は始まった。
今朝、駅の近くにある郵便局で荷物を受け取った。電車に乗り、封を開けてみると手紙とDVDが入っている。
そこには "Are you Happy?"という問いかけがあった。
今日はやらなければならないことが多い日だ。そのうちほとんどが買い物で、銀行にも用がある。
タイムズスクエアの近くでひとつ用事を終えてから、まずはバスでソーホーへ向かうことにした。
この間の日曜日、気に入ったスニーカーを見つけたが、あいにくぴったりのサイズが品切れだった。まだ2日しか経っていないが、もしかしたらもう入荷しているかもしれないと、あまり期待せずに再び訪ねたところ、幸いにも今日はあった。
店内はとても混んでいて、倉庫からそのスニーカーを持って来てもらうまで20分ほどかかったが、店員の男性がとても恐縮した様子で「待たせてごめんね」と謝るので、ノープロブレムと言うと、その彼は"Nice to meet you. Have a nice day!"と笑った。
スニーカーがあったことよりも、むしろその言葉を聞けたことが私にとっては幸運だ。
今日一日、なんだかとてもツイているような気がしてきた。
次いで銀行に行った。窓口の女性に身分証明書を要求され、リュックからパスポートを出して手渡したところ、その女性がパスポートの写真と私を見比べてから「へえ」とも「ふうん」ともつかないような声をあげたので「そんなに違う?」と尋ねると、彼女は「少しね」と笑った。
まあ、確かに今日の私はノーメイクだ。帽子を被り、Tシャツを着て、首からカメラも下げている。日本で働いていたときに撮った写真と違うのももっともだ。
そういえば、旅のあいだはいつもこんな感じだった。だとしたら、今日の私は生活者ではなく、旅をしていたときの顔に戻っているのかもしれない。
思わず、あたりに鏡がないか振り返って探した。
いくつかの店で買い物を済ませたあと、14丁目のユニオンスクエアへ向かった。書店とチーズ屋を回ってから静かな住宅街を歩いていると、目の前に小さな人だかりができている。
事故だ。誰かが道に倒れていて、その脇には警官がふたり立っている。
覗き込まなくてもすぐにわかった。すぐ側の建物から落ちたのだ。ガードマンのような制服を着た男性で、頭部から流れた血が地面に染み込んでいた。
通行人か近くの住人か、あちこちで現場の方を見ながら会話する人達がいる。そのなかを、足を止めずに過ぎ去ろうとしていると、向こうからやってきた大柄な黒人の男性が「彼は生きているのか」と聞いてきた。
"I don't think so."
私の答えを聞いた彼は舌打ちし、それから現場の方へ歩いて行った。
私は、自分の発した4つの単語が地面に倒れている男性の命を完全に否定してしまったような気がして何だかとても薄情な気分になり、振り返らず、少しだけ足を速めて大通りへ出た。
通りに面したスターバックスで、日本では売っていないコーヒーの豆を買ってから少し歩いてベーグル屋に行った。
この店は、私の大好きな店だ。狭いがいつもお客がいっぱいで、ベーグルだけじゃなくコーヒーもとてもおいしい。
数年前、初めてこの店を訪ねたとき、店員の男性に「おすすめのクリームチーズは?」と聞いたら即答で「サンドライトマト」という声が返って来た。今日もそれにしようか迷ったが、しばらくショーケースを眺めた後、クリームチーズにサーモンの身を混ぜたロックスをプレーンベーグルに塗ってもらうことにした。
席に座り、さて食べようと思って紙包みを開けるとクリームチーズが真っ白だ。これはプレーンベーグルにプレーンのクリームチーズを塗ったなと気付いたが、取り替えてもらわず、そのまま食べることにした。この店で初めて食べるプレーンのクリームチーズは脂肪分が高いのだろう、とても濃厚で、他の店に比べて甘みが強いベーグルによく合った。
ベーグル屋を出てから30分ほどひとに会い、そのあとキッチン用品の店へ行った。食器とカトラリーをいくつか買って、そろそろ帰ろうかと時計を見ると、もう7時過ぎだった。
店のガラス扉はとても重かった。両手に荷物を持っていたので、しっかり開けることができなかったのが不味かったのだ。うっかり右足のアキレス腱を扉で挟んでしまった。
いたっ、と思わず声があがったが、まあ大したケガでもないだろうと傷口を見もせずに外へ出た。しかし、歩くたびジンジンと痛みが増してくる。道端に寄ってかかとのあたりを振り返ると、ジーンズに血がにじんでいた。慌てて裾をたくし上げる。傷は思った以上に深いようだ。
そのままジーンズを膝まで捲ったが、片足だけ折っているのも妙なので、左足も同じようにすることにした。旅の間は、いつもこんな感じでジーンズを履いていたなあ、やっぱり今日は旅人の相が出ているんだなあと、妙なことに感心しながら地下鉄の駅へ続く階段を下りた。
ちょうど、会社帰りのラッシュタイムだったため、車内は珍しく混んでいる。両手いっぱいの荷物を足下に置き、長椅子の前に立つと、私のとなりに白い杖をついた男性がやってきた。
「どこか、席は空いていますか」
誰に聞いているのかわからなかったが、「ないですよ」と答えると、その人は手すりにつかまりもせず、白い杖を支えにしてそこに立った。危ないと思っていたところ、電車が動いた瞬間、案の定彼の身体はぐらりと揺れた。
「私の心を幸せにするものは」
電車が動きだしてしばらくした後、不意に彼が歌いだした。
「ジーザス以外、この世にはありません」
それは賛美歌だった。和音で演奏したらきれいだろうなと思う、シンプルなメロディだ。
「私の心を満たすものは、ジーザス以外、この世にはありません」
大きくもなく、小さくもない声で彼はゆったり歌い続ける。
「私の心を抱きしめるものは、ジーザス以外、この世にはありません」
歌詞を代え、何度か同じ旋律を繰り返す。とても不思議な曲だった。いつまでも心に残るような気もするし、この時間が過ぎたらもう跡形も無く忘れてしまいそうな感じもした。やがて電車はとなりの駅に着き、彼は白い杖をついて降りて行った。
彼の歌声を心のなかで反復しつつ、その後ろ姿を見送っていたとき、今朝、電車のなかで読んだ "Are you Happy?"という問いかけが、唐突に心に浮かんだ。
アキレス腱の傷口は開いたままだ。血もこびりついている。席は空かないので、いくつもの紙袋を足下に置いたまま、私は手すりにつかまり立っている。
ジーンズを膝までたくし上げ、両手いっぱいの荷物を持ち、かかとから血を流している女性なんて、ニューヨークの地下鉄がいくら無数に走っているとはいえ、そんなの私くらいだろうと考えたら、とてもおかしくなってきた。痛みはもう、完全に消えていた。
電車が地上に出たあと、突然、車窓から空に光るものが見えた。
始めは飛行機かと思ったが、どうも形が違う。楕円なのだ。
飛行船か、それとも気球かと、じっと目を凝らしてみたが、よくわからない。窓らしい場所にチカチカと光るものが点滅している。
これから夜になるというのに飛行船や気球が飛ぶだろうか。これはきっと宇宙船なのだ、どこか基地へ向かって飛ぶところなのだ。
そう考えたら、なにかとても壮大な夢がはじまる気がして、目でじっとその物体を追いかけた。しかし、電車が高架線をくぐったとき、その姿は見えなくなった。
駅で降り、家へ歩いて帰る途中、道の向こうにまた光るものが見えた。
今度は、その正体がはっきりわかる。
蛍だ。
先月まで時折見かけることはあったが、最近はめっきり見なくなったので、もう蛍の季節は終わったのかと思っていた。
蛍は街路樹の幹のあたりを迷子のように飛んでいる。こんな涼しい夜に見る蛍の光は、少しだけ青白く見える気がする。
この一匹は、夏の忘れ形見に違いない。
蛍の邪魔をしないよう、そうっとそのとなりを通り過ぎた。
"Are you Happy?"
もう、すっかり陽が暮れて暗くなった道を歩きながら、再びこの質問が胸に浮かぶ。
今日の私は幸せだっただろうか。明日の私は幸せだろうか。
「私の心を幸せにするものは」
盲目の男性の歌声が耳によみがえる。彼は自分自身を幸せにするものを知っていた。混雑した電車のなかで朗々と歌うほど、確信を持って知っていた。
そして、私もそれを知っている。今はまだ手探りだとしても、しっかりその芽は育っている。それなら、なにも答えに迷うことはない。返事はひとつしかないのだから。
街路樹の近くに二匹目の蛍はいなかったが、空にはいくつかの小さな星が光っていた。夏に見る夜空よりも少しだけ星が遠くなり、空の色も薄墨色だ。
この空は夏の忘れ形見でも、なにかのおしまいでもなく、新しい季節のはじまりなのだ。
そう思ったら、長かった今日というこの日ほど、真っ白なラインが引かれたスタート地点に立つのにふさわしい日はないような気がしてきた。