インドのダラムサラという町で、日本人のお坊さんに出会った。
すごくおしゃべり好きな人で、あるときなどお茶を3杯飲みながら仏教のことや人生のこと、その町に暮らすダライラマや果てはサイババのことまでも、延々5時間以上語っていたことがある。
人の話を聞くのは好きだからそれほど苦ではなかったけれど、でもさすがにちょっと疲れたかなという頃に耳に入ったお坊さんの一言は、今でも私の胸に残っている。
「『あきらめる』ということはね、『あきらかにみる』ことからきているんですよ。
ものを歪めたりすることなく、事実をそのまま、ありのまま見る。
だから人間は『あきらめること』も大事なんです」
昔から「あきらめる」ことが嫌いだった。
ガンコだし、強情だし、意地っ張りだから、「あきらめる」のは他人にも自分にも負ける気がしていやだった。
だけど、それが本当に「あきらかにみる」ことからきているんだとしたら、それほど嫌悪するものではないのかもしれない。
認めたくないことも、受け入れたくないことも、きちんとあきらかにみられるということは、自分の心が強い証拠だ。
ぽっきりと折れてしまう鉄柱ではなく、すべてを包括する柔軟なしなやかさ。
昨日、大殺界かと思うようなことがあった。
本当は今日1日、友達と出かける予定があったのに、とてもそんな気分じゃなくて申し訳ないけどキャンセルさせてもらった。
このことも「あきらかにみる」ことができるようになったら、私の心はもっと豊かになるのかもしれない。
この日の日記に書いた、ジャイサルメールの砂漠フェスティバルでの1コマ。
決して豊かではない暮らしぶりの彼らだけど、華やかな衣装はそれだけで凛としたたくましさを放っている。