どこにも行かなくていい、これさえあればいい、というもの。
インド人の友人は、いつもわたしがしんどいとき、
なぜかタイミングを見計らったようにメールをくれる。
年齢はひと回り以上離れているのに、
いつも誠実で裏表がなく、こまかいところまで気を遣ってくれる。
今回、インドで会った彼は1ヵ月前に失恋したばかりだった。
心配していたよりも元気そうだったけれど、
時々はっとするくらい澄んだ眼をしていて、思わず見惚れた。
いったい、どれだけ泣いたらそんなに眼が透き通るんだろう。
先週、彼は体調不良と家の用事が重なって南インドの実家に帰った。
ここ数日、Facebookでチャットのようにメールをやり取りするたび、
「いつ、Hirokoはmy homeに遊びに来る?」と訊いてくれる。
もちろん、今すぐだって行きたいよ!
でももう少し、ここで踏ん張らないと自分自身が情けなくて頼りなく、
わたしはキミの澄んだ眼を正面から見られない。
彼はもう、ダラムサラで
ヨガクラスのアシストをするつもりはないらしい。
たぶん、彼は一度、住み慣れた家を離れることで見つけたのだ。
もう、どこにも行かなくていい、これさえあればいいというものを。
そして、わたしはまだ探している。
探しているからこそ見つからないのだということも
うっすらと気付いている。
探しているうちは見つからない。
欲しいと思っているうちは手に入らない。
だったら、わたしはなにが欲しいのと自問しても
はっきりした答えがない。
ああ、そうだ、
わたしは「やっと、見つけた」と思える感覚に出会いたいのだ。
それは、場所でもひとでも、なんでもいい。
わたしは何ともしれない何かを、ひとりでずっと探しているのだ。
写真はダラムサラの夕暮れ、曇り空。
ヨガのあと、彼とたわいもないことを話しながら
この道を、何度も歩いた。
今度、ダラムサラに出かけてもたぶん彼はいないだろうから、
わたしはこの景色を、ひとりで見ることになりそうだ。