わたしが、インドを愛する理由。
思えば、はじめからツイていた旅だったのだ。
今年、モンスーンの被害がひどかったデリーでは
滞在中、幸いにも大雨に見舞われず、
パキスタンとの国境に近いタール砂漠のなかにあり、
体感温度50度というジャイサルメールでは
ありがたいことに2度も恵みの雨に降られ、
デシュノクのねずみ寺では、幸運の象徴という白ねずみを見て、
最後、デリーで二日続けて立ち寄った土産物屋では
「ごめんごめん、昨日、カード決済を1ケタ間違えていたんだ。
ちょうど今、キミの連絡先がわからなくて
困っていたところだったんだよ」と、おそろしいことを言われた。
もし、私が連日その店に立ち寄らなかったら
数万円単位の金額が口座から引き落とされていたと思うとゾッとする。
わたしは、この旅でとてもツイていたのだ。
なにをやっても、うまくいくように流れていたのだ。
昔、インドのダラムサラで会った日本人のお坊さんはこう言った。
「あなたは、なにを求めてインドへ来ているのか。
それがわからなかったら
何度も同じところをグルグルまわるだけですよ」
それまで、旅になにも求めず、
旅人は、ただ与えてくれるものを享受するのみと思っていたし、
特に、なにがしたい、なにが欲しいという気持ちもなかったから
不意にそう指摘されても、あまりピンと来なかったのだけど、
時には、みずから旅に対して求めることも必要なのだと、
今回、ようやく気がついた。
インドに通い始めて13年、
これまでの旅の日々はここへつながる道だった。
わたしは、ようやく見つけた。
旅を始めてから今まで、知らず知らずのうちに求めていたものを。
インド人と話をしていると、
"What can I do?" という言葉が出てくることがある。
「自分に何ができるっていうんだ」「しかたないじゃないか」
決して哀しく悲観的な口調ではない。
しかし、そこには世界をすっぽりと包み込む巨大なあきらめがある。
わたしはそれを彼らと共有できるはずもなく、
そもそも、彼らも誰かと共有したいとは思っていない。
「僕は、生まれてから今まで、砂漠から一歩も出たことがないんだ。
海も見たことないし、山も知らない。
だけど、砂でできた大海はいつも見ているし、
砂でできた山は毎日のように登っている」
たとえ、選べる未来はひとつだとしても、
可能性は少しでも多いほうが良く、
将来は、できるだけ広がりのある方が良いと思っていたけれど、
実際は、必ずしもそうではなかった。
なにを、どれだけ手の中に持っているかということよりも、
自分の手の中にあるものを
どれだけ愛せるかということのほうが
ほんとうは、もっと大切なのだろう。
文字で書いてしまえば、あまりにも薄っぺらい。
だけど、ひとの口から生まれたことばは
悲喜交々の立体的な存在感を持っていて、
その陰影が、わたしの心を惹き付ける。
インドにいながら、次はいつインドへ来ようって
そればかり考えていた。
どうやらわたしは、
インドとそこに暮らす人々をほんとうに愛しているみたいだ。
なにを求めてインドへ行くのか。
決まっているじゃないか、それはもちろん
その地に会いたい誰かがいるからだ。
写真は、ジャイサルメールから乗った列車のなか。
東京の暑さなんて足下にも及ばないような、灼熱の砂漠は
ひとの心を、強く、たくましく、しなやかにする。