ひとも、景色の一部なのだと。
昔、出会った旅人にギターを持って中国と東南アジアを何周もしている人がいた。路上だろうと、バス停だろうと、市場の真ん中だろうと、川縁だろうと、気が向けばギターを弾きながら歌をうたう自由人だったのでどこへ行っても町のひとたちとすぐに仲良くなり、子どもたちはいつでも彼の後をくっついていた。レパートリーも広く、その国で流行している音楽もアレンジして歌っていたから、彼と一緒に町を歩くと地元のひとからリクエストの声が飛んでくることもあった。そんな姿がいいなあと思い、それ以来、わたしも真似して胡弓を持って旅するようになった。そういえば、ミャンマーのインレー湖へ出かけたとき、安宿のテラスで胡弓を弾いていたら宿で働く少年が真下の道路からこっちへ手を振り、「グー!」と親指を突き出したことがあった。そのあと、急いで彼はテラスまでやってきて、「その歌、大好きなんだ」と言った。あのとき弾いていたのは、たしか、"500 Miles" だ。
ある旅人は絵を描くのが上手で、独特の色使いと繊細な描写がとても印象的だった。隣で同じ光景を見ていてもその人の目を通せばこんなふうになるのかと、出来上がった絵を見せてもらうたびに感心した。これまでの人生で眺めた夕日でもっとも美しかったのは、そのひとと出かけたインドのマウントアーブーで見た景色。太陽が遠くの大地に沈んだあと、地平線と平行して空が虹色に染まったのだ。360度、ぐるりと七色に塗られた空はどんな言葉でも表現できそうにない。
「旅をしていると、なにか生産的なことをしたくなりませんか」と、ある旅人に訊ねられたこともあった。日本を出発してちょうど1年経った頃、彼と会ったのはインド中部のオルチャだったと思う。たぶん、仕事を辞めてインドへやって来た彼にとっては、毎日やることと言ったら散歩と食事と昼寝と、それから地図を見ながら次に出かける場所の見当をつけることだけといった旅の生活が恐ろしく暇で、非生産的なものに思えたのかもしれない。もし、生産の意味を社会的に意義ある何かを生み出すことと定義するなら、旅は消費と浪費の連続なのかもしれないけれど、なんとも言いようがなかった私はううん、と言って言葉を濁した。
これまで、忘れがたい旅人にたくさん出会った。今でも連絡を取っているひともいれば、連絡を取らずともどこかでつながっていると信じられるひともいる。そんななかに、恐らくもう一生連絡を取ることはないだろうし、連絡を取る手段すらなにも持ち合わせていないのだけれど、ふとした瞬間に思い出すひとがいる。
そのひとは、マレーシアのコタバルで出会った40歳過ぎの日本人男性で、日本人バックパッカーの溜まり場として有名なゲストハウスに泊まっていた。わたしはバス停近くの違う宿に泊まっていたのだけど、なんだか日本語の本が読みたくなってその宿を訪ねたときに知り合ったのだ。彼はコタバルがとても気に入っていて、1年の半分近くをその宿で過ごし、残り半分は日本へ出稼ぎに帰ると言っていた。当時、わたしは約半年でバンコクからシンガポールまで南下する旅をしていて、コタバルには3泊くらいの予定で立ち寄ったのだけど、こじんまりとしたその町は想像以上に居心地が良く、その上、その宿におもしろそうな小説が揃っていたこともあり、計画を変更してそこに長居することにした。昼間はその宿から借りた本を読んだり散歩をしたりして過ごし、夕食はそのひとが行きつけという定食屋へ一緒に行って、チキンライスやヌードルを食べながら話をした。コタバルは日が長く、7時くらいでもまだ西日がまぶしくて、半屋外といった造りの定食屋でふたりとも目を細めながら食事をしたことを覚えている。3週間が経った頃、本もあらかた読み終わったし、そろそろ次の町へ行くかと思い、「わたし、明日ここを出ようと思うんですよ」と食事中、そのひとに告げた。「マレーシアからインドネシアに渡りたいので、いったんペナンに戻ろうと思って」。そう言うと、「インドネシアですか、自分はこれだけ長くマレーシアには来ているけれど、まだ行ったことがないんですよ」と彼は言った。「インドネシアもマレー語だから言葉には不自由しないと思うんですが、どうしてもコタバルから離れられなくてね」。コタバルはイスラム色が強い町で、その雰囲気に惹かれて同じイスラム圏のインドネシアに行ってみたくなったのだとわたしが言うと、「そうですか、インドネシアのイスラムは、こことまた違った感じなんでしょうね」と彼が言った。食事を終え、借りていた本を返そうと、彼の泊まる宿へ一緒に向かった。通りから細道を入った突き当たりにあるその宿には敷地の入り口にマンゴの木が生えていた。時期ではなかったので、まだ実はなっていなかったが、その木は恐らく2メートルほどの高さがあったと思う。サンダルを脱いで宿に上がり、本を書棚に戻して、「じゃあ、わたし、帰ります。今までありがとうございました」と彼に告げると、「また、どこかで。気をつけて」と彼は右手を差し出した。握手をし、サンダルを履いて外へ出ると、続いて彼もサンダルを履き、マンゴの木の下まで出て見送ってくれた。もう一度、さようならと言ってから細道を進む。通りへ出たとき宿の方を振り返ると、まだ彼は木のそばに立っていた。逆光を浴びて、彼の表情はまったく見えなかったが、手を振るでもなく、ただ木のそばで静かに立っている彼の姿は、そのまま木と一体になってしまいそうにどこかせつない光景だった。
もう、10年近く前のことだ。だけど、今でもその様子はときどきふと思い出す。大きく茂るマンゴの木も、夕方の風が吹き抜ける定食屋も、そのひとが履いていた底の薄いサンダルも、たぶんずっと忘れないような気がしている。