誕生月の終わりを迎えるにあたり。
数学が苦手になったのは、たしか虚数が出てきてからだ。
二乗してマイナスになるなんて、一体どんな世界のできごとなんだと
頭のなかで、まったくその様子を思い浮かべることができなかった。
先生にもしつこく質問したし、参考書も何度も読んだけれど、
わたしを満足させるようなこたえはどこにもなかったので、
これはもう、「大人には大人の事情ってもんがあるのです」的な理屈で
無理矢理納得するしか、テストにパスする方法はなかった。
虚数とは何か、どんな時に使うのかなど、全然覚えていないけれど、
それでもなぜか、虚数に付くiの文字が必ずイタリック体で
それがなんだか妙に色っぽく見えたことと、
そのiはimaginary、つまり、「架空の」という単語の頭文字から
来ているのだということは、いまでもはっきり覚えている。
存在するものだけがすべてではなく、
目に見えるものだけが真実でもなく、
「これも好きだし、あれも好き、結局どっちでもいいのよ」的な理屈が
意外にすんなり通ってしまうことや、
なぜ、そんなことが起きたのだろうかとその原因を考えるとき、
「これも理由だし、あれも理由、結局いろんなことが重なったのよ」と
この世にはなんでもありみたいな、
よく言えばものわかりのいい、悪く言えば投げやり的な理屈が
きちんと効力を持つことがあるのだと知ったのも
たぶん、学校で虚数を習った頃だったのだと思う。
朝顔はなぜ、朝に咲くのかとか、
晴れのち雨という天気は、合間に曇りを挟まないのかとか、
真剣に考えても、あまり意味がない質問にも
こたえは少なくともひとつ以上存在し、
ときには、想像しうるすべてのことが正解というときもあるけれど、
そんなふうに、世界が無制限に果てしなく広がっていくのは
一見、許容量が広く、理解力があるように見えながら、
実は、こころと世界が接している部分は
針でちょんと打ったように小さくて、
もしかしたら、理解できないものを理解できないまま
置き去りにしてしまっているだけなのではないかと
自分自身を、100mうしろから疑いたくなる瞬間があるのは、
年を取った分だけ、理性と矛盾と妥協のシワが
わたしのなかで、深くなったからなのだろうか。
ベーグルはニューヨークのおみやげ。
absolute bagel、絶対的なベーグル。
何度、聞いてもすごい名前だ。